1517年にドイツの聖職者であったマルティン・ルターが95の反駁文を出した。この内容はあっという間にヨーロッパ全土に広まった。まもなくマルティン・ルターはローマカトリック教会から罷免され、彼の教理は宗教改革が起きる礎石になった。後に、ウェストファリア条約によって、ドイツの地方領主たちは自分たちの領土の宗教を定めることができる権利を得ることになった。
時が過ぎ、新教運動は大部分のヨーロッパ国家で歓迎され、旧教と新教間の紛争により戦争が起こる兆しが見え始めた。イングランドはローマカトリック、すなわち旧教とヘンリー8世治世のときに背を向けた。ヘンリー8世はローマカトリック修道院の財産を奪って、イングランド教会の首長は自分だと宣言した。このように彼が宣言することになった理由は、ローマ政府が自分の離婚を承認しなかったためであった。
このような宗教紛争は1572年8月24日にフランスで極まりに達した。多くのユグノー(新教徒)たちがマルガリータ王女の結婚式で旧教徒によって虐殺されたのだ。当時スペインの国王だったフィリップ2世はスペイン領土であったオランダに軍隊を派遣して、新教徒の動きを事前に防ごうとした。このような宗教的紛争はオランダ独立運動につながることになる。1566年、新教徒の政党がイングランドの助けで反乱を試みる。後に、皮肉にもこのようなフィリップ2世の宗教弾圧政策は、カレー海戦での敗戦要因の一つになった。オランダ新教徒たちによってスペイン地上軍がスペイン船に上がるのを妨害されためである。
16世紀にスペインはヨーロッパで最も力が強い国であり、新大陸のアメリカ大陸にも多くの植民地を置いていた。国王のフィリップ2世は信実な旧教信者であり、イングランドの支配者になろうとする野望を常に心に抱いていた。スペインがトルコと新教との戦争に全力を尽くしているとき、イングランドの女王だったエリザベス1世女王はドレークを送ってスペインの船を略奪するように助けてくれた。
エリザベス女王は自分の父であるヘンリー8世の宗教を継承し、ヨーロッパ大陸にある新教国家、すなわちオランダのような所を支援した。エリザベス女王は特にオランダの新教徒たちと密接な関係を結んでいたが、イングランドとオランダ間の距離が遠くなかったため、オランダにあったスペイン勢力がイングランドの大きな脅威要素の一つであったためであった。その当時スペインはオランダと周辺のフランドル地域に強力な軍隊を駐留しておいた状態であった。
イングランド人たちの持続的なスペイン船略奪によりスペインは多くの被害をこうむった。このためにフィリップ2世は1580年7月からイングランド船舶を監視して、西インド諸島と大西洋で引き続き略奪をしたドレークを罰するようにイングランドに圧力を加えた。しかし、エリザベス1世はむしろドレークに爵位を与え、イングランド軍をオランダへ派遣して、スペインに対抗して独立運動を広げたオランダを助けた。
フィリップ2世はスコットランドの女王であるメリーが死ぬと、イングランド侵略計画をたてた。篤実なカトリック教徒であったメリーは、スペインを後ろ盾にしてエリザベス女王の政権を転覆させようとしたので処刑された。フィリップ2世はローマの助けを得ようとイングランド侵略計画を宗教戦争に誇張した。ついにフィリップ2世は侵略名分と支持を得ることになった。しかし、この計画は1587年にドレーク卿がカディス港に入ってきて、フィリップ2世が侵略のために用意しておいたスペイン戦船を大部分沈没させて、延期しなければならなかった。この戦船に補給物品がたくさん積まれていたため、スペインはこのような物品も再び準備しなければならなかった。
スペインのイングランド侵略計画は当初伝説的な提督だったサンタクルスによって立てられた。サンタクルスはアイルランドを先に占領して、その後でイングランドへ前進しようと提案したが、彼が死んだ後、この計画は失敗に終わってしまった。彼に続いてメディナ公が再び計画をたてた。メディナ公は優れた軍人だったが、海戦経験は多少不足していた。これもスペインがカレー海戦で敗れることになる原因の一つとなる。フィリップ2世の計画は彼の艦隊をオランダにあった地上軍のパルマ公の軍隊と合わせて攻撃するというものだった。フィリップ2世と側近たちは強力なスペイン地上軍がイングランドに降りるやいなや、勝った勢いで進むものだと確信したためだった。
イングランドはスペイン内部から情報を集めるのをおろそかにしなかった。イングランドは多様な経路を通じて情報を収集して分析した。当時イングランドの首相だったウォルシングハムは部下をスペイン王宮に送り込んで諜報活動を行わせた。イングランドの古文書を見れば、彼がスペインが侵略する1年前からすでに侵略計画を把握していたことが分かる。イングランドは侵略計画を知った直後に防御戦略をたて、オランダの新教徒たちとも協力関係を厚くした。同時にイングランドは戦船の構造を変えて多くの船を建造した。
スペインの侵略計画の実行内容,艦隊の規模,司令官の名前などもスペイン内で活動したイングランドスパイたちによって本国に伝えられた。今日まで伝えられているあるスパイがイングランド政府に送った手紙の内容には、130隻の船がイングランド侵略のために準備され、ドン・アロンソ・デリバがスペイン地上軍総司令官になったと正確に記しており、オランダのパルマ公に艦隊がいつ到着するのか知らせるために、あるスペイン船がスペイン艦隊が出発する前にオランダに発ったという内容も含んでいる。この手紙はスペイン艦隊のために出兵に参加したイタリア船長の手紙を土台に書かれたものであった。
| イングランド艦隊 | スペイン艦隊 | |
|---|---|---|
| 司令官 | ハワード提督, ドレーク提督, ホキンス提督 | 総司令官: メディナ公 地上軍総司令官: ドン・アロンソ・デリバ |
| 兵力 | 15,000人 | 総:28,000, 地上軍:20,000, 海軍および追加兵力:8,000 |
| 艦船 | 総:197 隻戦闘船: 新しく建造したガリオン船20隻を含めた75隻 |
総 : 130隻戦闘船 : 65隻, 兵船:2隻 |
スペイン艦隊はリスボン港を出港して今日のフランス,ベルギー,オランダの領土であるフランダース地方へ向かった。ここでパルマ公の地上軍が待っていたためだった。しかし、出港した後、激しい暴風のためにスペイン艦隊は予定された時刻より遅くイングランド側に北上した。
7月中旬にスペイン艦隊はイングランド海峡の西側付近に到着することができた。7月30日頃にスペイン艦隊はイングランド領土のコーンウォール地域で目撃された。このとき、イングランド艦隊はプリマス港に停泊していた。スペイン艦隊は三日月模様の形を取ったままイングランド海峡に沿ってフランダース地方に進んでいた。
イングランド艦隊とスペイン艦隊が初めて交戦した後に、ハワード提督はイングランド艦隊を四つの分隊に分けて一分隊は自分が、一分隊はドレーク提督が、一分隊はホキンス提督が、そして残り一分隊はマーティン卿が率いるようにした。イングランド艦隊はスペイン艦隊と数回交戦をした。この過程でドレーク卿がスペイン艦隊の1隻を捕獲して、1隻はスペイン軍の誤りで火に焼けて沈没した。イングランド艦隊はスペイン艦隊に致命的な被害を与えられなかったが、スペイン艦隊の艦砲を消耗させるには成功した。メディナ公がパルマ公に書状を送って艦砲と弾薬を準備してくれと言ったためだ。スペイン艦隊とは反対にイングランド艦隊は弾薬および飲み水,食糧などを付近の港で調達し続けることができた。これは勝利要因の一つに作用した。
8月6~7日頃にスペイン艦隊はパルマ公と会うことにしたカレー沖に停泊した。スペイン艦隊は海の水位が低く船が大きいため、入り江に停泊することが難しかったので、沖で停泊した後、パルマ軍を小さい船に積み出すことにした。イングランド艦隊もスペイン艦隊の付近に停泊した。メディナ・シドニア公はカレーに到着する前に自分の部下をパルマ公のもとに送ったが、パルマ公の軍隊は何日過ぎてもこなかった。最近明らかになったスペイン歴史学者たちの研究結果によれば、その当時、パルマ公はすでにこの侵略計画が失敗したと思い、軍隊を内陸に移動させたという。
スペイン艦隊はイングランド海峡へ再び南下してこようとしたが、暴風により北上し続けるしかなかった。状況がこのようになり、メディナ・シドニア公は侵略計画をあきらめるに至った。武器と食糧もすっかりなくなった状態だったためだ。シドニア公は結局退却して、スコットランドとアイルランドを経て、再び母国に帰ることに決めた。その当時、スコットランド王だったジェームズはスペイン軍がスコットランドの港に入港するのを許さなかった。エリザベス1世からジェームズに自分の後を継がせるという約束を受けたところだったためだった。ジェームズ王はこのようなエリザベス1世女王の信任を裏切るようなことをしたくなかった。
スペインへ向かう途中、スペイン人たちは深刻な食糧および水不足に苦しめられていた。台風も彼らを苦しめた。飢えたスペイン船員たちはメディナ・シドニア公の命令にもかかわらず、アイルランドに停泊して食糧を探そうとした。しかし、彼らの大部分はこれをあらかじめ予想したエリザベスの軍隊によって殺戮された。メディナ・シドニア公は9月13日になって半数残った艦隊を率いてサンタンデール港に到着する。
