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壬辰倭乱の勃発

豊臣秀吉は朝鮮との交渉が決裂するや、すぐさま侵略軍を編成して朝鮮侵略を命じ、自分は名古屋で戦争を指揮する計画をたてた。
侵略軍は9部隊15万8,700人の兵力とこの他に九鬼嘉隆、藤堂高虎などが率いる水軍9千人が乗船して海上に備え、宮部長煕らが率いる1万2千人が前後して海を渡り、後方警備に臨んだ。このほかにも早川長政らが釜山に侵入して船隻を管理するなど、正規軍の他に莫大な兵力が出動して、全体兵力数は20万余りになった。日本が侵入する当時に総兵力は30万人余りで、出征兵力を除いた軍隊は名古屋に10万を留まるようにして、3万の兵士で京都を守備させた。

朝鮮に一番最初に侵入した日本軍は小西が率いる第1隊であった。小西は1592年(宣祖25)4月13日麾下の将兵を軍用船700隻余りに分乗させて午前8時に大浦港を離れ、午後に釜山沖に到着し、翌日釜山鎮を攻撃することによって戦争が始まった。

日本軍を迎えた釜山鎮の僉使鄭撥は敵と戦い敗れて戦死した。敵は引き続き、翌日東莱城を侵攻し、府使宋象賢も孤軍奮闘して戦死した。小西の部隊はその後ほとんど朝鮮官軍の抵抗を受けずに中路を選んで、梁山・密陽・清道・大邱・仁洞・善山を経て尚州に達した。

加藤朝鮮征伐図

一方、加藤が率いる第2隊は4月19日、釜山に上陸して左路で蔚山を陥落して、永川・軍威などを経て聞慶を抜け、中路軍と合流して忠州へ向かった。同日、黒田が引率した第3隊は東莱から金海に侵入して右路で知禮・錦山をすぎ、秋風嶺を越えて清州方面に侵入した。

第4隊は金海で第3隊とともに昌寧を占領した後、星州を経て秋風嶺方面へ向かった。第5隊は第4隊の後に従って釜山に上陸し、北に向かって侵入した。第6隊と7隊は後方を守りながら北上し、宇喜多が率いる第8隊は5月初めに釜山に上陸し、ソウルが陥落したという報告を受け、急いでソウルに向かって北上した。第9隊は4月24日に壱岐島に留まりながら侵略に待機していた。

日本軍が大挙侵入したという報告が中央に伝えられたことは戦争が起こってから4日目となる日だった。急報に接した朝鮮朝廷はその対策を議論したあげく、一時しのぎで鳥嶺・忠州方面の中路を防御するようにし、竹嶺・忠州方面の左路を防御させ、秋風嶺・清州・竹山方面の右路を一方、竹嶺を守るようにした。各大将らによって地域を分担し、敵の侵入に対処する計画は立てられたが、長い間戦争を体験したことがない国民たちは軍人が何なのかすら分からない状態であったため烏合の衆であったといえる。

したがって巡辺使李鎰は尚州地域で日本軍の北上を阻止しようとしたが、簡単に敗北してしまった。当時、慶尚道地域の兵士を制勝方略によってこの地域に集結させたが、数日が過ぎてもソウルから彼らを指揮する大将がきていない状況で日本軍が圧迫してくるや、驚いて動揺し始めた。さらに雨まで降って軍用米まで補給が切れると、戦いもせずに皆散らばってしまった。これに李鎰は散らばった国民らを集めて、隠れていた人々を探して数百人の兵士を集め、急いで隊伍を編成したが、日本軍が差し迫ると、まともに戦うこともできずに敗北した。

以後李鎰は単身で脱走、聞慶の地に着いてから敗報を中央に伝えたあと退いて鳥嶺を守ろうとしたが、都巡辺使申砬が忠州に来ているという消息を聞いてそこへ走って行った。

小西部隊が4月26日、聞慶鳥嶺を越えて翌日忠州に達した時、申砬は8千人余りの兵を率いて弾琴台に背水の陣を敷いて対抗した。三面から包囲網を狭めながら鳥銃を撃つ日本軍を見るや、申砬は急ぐあまり単騎で2回ほど敵陣に突進しようとしたが、失敗して結局敗北し、達川江に投身自決して全軍が陥落した。

以後、小西の部隊は加藤の軍と忠州で一旦合流したが、また進路を別にして、小西の軍は京畿道驪州に出て川を渡り、楊根を経由して東路に抜けた。加藤の軍は竹山・龍仁に抜けて漢江南岸に達した。第3隊と毛利吉成の第4隊も4月25日に星州に達し、秋風嶺を越えて清州城を陥落し、京畿道に抜けてソウルへ向かった。

漢陽(今のソウル)から抜け出す宣祖

日本軍が北上するという急報が飛び続けてきたが、それでも忠州敗報に接する前まではソウルを死守するという重臣らの決議は変わることがなかった。宣祖の避難を主張する一部官僚らも大義に押さえられて強い主張をできないままでいた。しかし、28日、大臣らの建議を受け入れて光海君を後継者に冊封し、百官らに戎服(軍服)を着させたが、翌日29日、忠州敗報が伝えられるや、物議をかもした宣祖の避難に対して是非を問い詰めることもなく、その日の夜に避難を決めた。

都城を離れるのに先立ち、長男である臨海君を咸鏡道に行かせ、三番目の息子順和君を江原道に行かせて勤王兵を募集するようにしたが、間もなく倭軍が江原道に入ってくるや、順和君も臨海君に従って咸鏡道に入った。

宣祖がソチョン下記に先立ち、右議政李陽元を留都大将に任命して都城を守備させ、金命元を都元帥として漢江を守らせたが、兵備が粗末で日本軍と対抗できない状態だった。深夜に"日本軍が一両日中に必ず都城に到達するだろう"という内容の李鎰の上啓が到着するや、追い詰められていた宣祖は戎服に着替えて避難しはじめ、後継者の光海君が王の後に従った。

日本軍がソウルに攻め込んだのは5月2~3日だった。このとき漢江を守備していた都元帥金命元敵の鳥銃弾が指揮本部の済川亭に落ちるや、漢江守備が困難を悟って臨津江に退却した。これにより、留都大将李陽元も都城の防御が不可能であることを悟ってソウルから撤収した。

開城に留まっていた宣祖一行は都城が日本軍に陥落したという知らせを受けて平壌に移り、金命元が臨津江の防御まで失敗して、開城が陥落したという報告を受け、平壌もあきらめて義州に向かった。

一方、5月初めにソウルを陥落して本拠地にしてしばらく休んで戦列を整備し、北侵を続けた日本軍は、臨津江を渡って3軍に分かれ、小西の部隊は平安道方面に侵入し、6月に平壌を占領してここを本拠地とした。咸鏡道に侵入した加藤部隊は本道観察使柳永立を捕虜にした。特に咸鏡道へ避難した臨海君・順和君と彼らを護衛していた大臣らも日本軍の捕虜になった。黄海道に侵入した黒田部隊は幸州を本拠地にして大部分の村に侵入して略奪を行った。

結局日本が侵略して戦争が始まって一ヶ月余りで湖南地域を除いた大部分の地域が日本軍の手中に入ることになった。義州に留まった宣祖も大きな脅威を受けていた。

しかし、6月以降、8道全域で義兵と義僧軍が蜂起し、連敗を繰り返した官軍の代わりをなして日本軍を撃破し、水軍の活躍で戦勢を挽回できる道が開きはじめた。特に10月に晋州牧使金時敏は軍・官・民が結集して、第一次晋州城の戦いで大きく勝利を収めた。